主に作業療法、時折音楽のことを、酒を飲みながら書いていきます。


 お久しぶりです。暑さと子育てでかなりバテ気味となり、ブログももうしばらく書いておりませんでした。二か月くらい空いてしまいました汗。
 
 私は元気です…笑。お酒や音楽に頼りながら、何とか生きております。

 今回のブログは私は生きているぞぐらいの感じで書こうかと思います。いや、色々なことを言葉にして、ネット上にまき散らすというのは案外すっきりします笑。

 ブログを新しい場所に移して、心機一転しようかとも思いましたが、面倒だし、人のためになるようなしっかりとしたブログを書いているわけでもないので、とりあえずとどまろうと思った次第であります。基本は面倒なことは嫌いということをなんとなく忘れていました笑。







 最近は子供を風呂に入れたりすることがあるんですが、風呂から上がって裸の状態だとすぐ泣きますね…子供ながらにやはり丸腰は怖いのでしょう笑。

 なんとなくそれは大人になっても同じで…なんか、自分の身を守るものがほしくなったり、社会で生き残るためたくさん知識をつけようとしたり、なんとなくまあ自分を磨く努力をしていくわけです。

 私も、リハビリ職である以上はやはり日々知識をつけたり、勉強したりすることは大事だなぁとは思うのですがなんか、行き詰まり感みたいなものを感じていました。

 なんか、人より高いところに行くためにやってるのかとか、なんか自分は特別だと思いたいのかとか、いろいろ考えるとモチベーションが下がって…。



 で、なんとなく、日曜日にテレビをつけていたら、ザ・ノンフィクションという番組で、phaさんという方がやっている、シェアハウス「ギークハウス」の特集をやっていました。そのシェアハウスには社会にあまりなじめず、生きにくさを感じる人が集まってくるといった感じでした。

 働きたくないという思いから、定職には就かず、インターネットや、スマホ、SNSを駆使して、金銭を得たり、旅をしてみたり、仲間と面白いことをしてみたりと…はたから見ると汚い古いビルをかりて、ちょっと薄汚い人たちが色々やってるぐらいの感じなんですが、とても楽しそうに見えました。

 番組終了後は、ツイッター上にはぼちぼち批判がありました。仕事しろとか、気持ち悪いとかまあそんな感じでしょうか。私自身はかなり生きにくさを感じている人間なので、こういうシェアハウスが普通になれば救われる人がたくさんいるだろうなという感じぐらいの感想です。




 
 で、ギークハウスをやっているphaさんは京大出身でとても頭のよい方のようで本も書いているようだったので、なんとなく買ってみました。

 私はそもそも本があまり好きでなく(たぶん左利きだから言葉に弱い笑。)最近はリハビリ関係の本は読んでいたんですが、なんかこういうゆるい感じの本を買うのはずいぶん久しぶりだった気がします。リハビリ関係の本は読んでいたおかげか、前よりは早く読めたような気がします。学習の転移ですね。

 本自体は短編集のような感じです。全部読んでいくとなんとなく生きにくさを感じる理由がわかる気がしました。

 日本は専業主婦が普通だったから家事に求められる基準が高いんじゃないか、タイのように外で安いご飯が食べられて毎日外食でもいいじゃないかとか、日本ではひきこもりになる人はイギリスではヤングホームレスになる、それはイギリスでは成人したら独立するからで、日本は家族のつながりが強すぎる、とかでしょうか。

 なんか、当たり前に思ってることが当たり前じゃない文化とか、大人になったらこういう風に働いてと思っていたのがそうじゃない人たちもいる、というのがわかると面白いですね。




 でも、なんとなくこのあたりに、行き詰まり感を解消する、ヒントがあるような気がします。

 自分の両親や、親戚の介護のために自分のやりたいことがやれていない方。時折臨床でもお会いしますが、やっぱり家族がみなきゃとか、そんな感じを強く受けます。

 かくいう私も、情報収集でまず、ご家族様は…とか聞いちゃいますもんね。いや、まあやらなきゃいけないことではあるんですけどね。

 ただ、なんか、いろんなところで色んなものにしばられているんだなぁということを最近は感じます。しかも、そういうのって自分では気づかずに他人には強要しがちだなぁと…そうするとどんどん周囲を巻き込んで、周囲に巻き込まれて、生きづらくなっていくなぁと感じます。

 



 なんか重い笑。





 自分自身が生きづらいと感じる中で、生きづらいと感じている人を支援するというのもなかなか難しいと感じることがあります。

 もう少し力を抜いて自分らしく生活していこうと思います。人生死ぬまでの暇つぶし。と思えば、少し力が抜けそうです。皆がそんな感じで生活すればなんか良い社会になっていく気がします。

 力を抜いて、色々なものを受け入れられるようになれば、皆が生きやすくなってくるような…。



 あれ、何の話だろうか…汗。でも、どんな人でもここにいていいという場所があるというのは理想ですよね。どんな形でも。





 さて、来週は忙しくなりそうです!MTDLP関係や国際OTIPMシンポジウムにも参加してきます!

 たぶん一、二週に一回は更新すると思います!では、また!
 お久しぶりです。もう四月も終わりですねー。ブログを書く時間もなかなかなかったです。

 とか言いながら昨日は下北沢に2時間ちょっとだけ滞在するという弾丸ツアーを強行するなど…元気ではあります。限定のレコード買えてよかったー。



 ちょっと時間は経ってしまいましたが、認知症のケアに関するユマニチュードや、主に統合失調症に関する介入方法であるオープンダイアローグの本を読んでいました。

 発症すればほぼ一生付き合うことになる病気というのは結構あるように感じます。特に認知症に関しては、どのようにリハビリテーションを提供するかというのは、時折課題にあがるように思います。



 以前、認知症の方のリハビリについて同僚から「ケアだけになってしまう」といった話をされたことがあります。

 患者の主観的な思い、願い、価値観が客観的な状況に沿うように変わることを「ケア」というそうです。英語の辞書では、気にかかること、心配、気がかり、不安、心配事、心配の種、気にかけること、みたいな感じですね。

 で、直接的には言っていないですが、同僚としてはケアじゃなく、医療職、リハビリ職ならキュアを目指さなければいけないといった意識があるのかなぁと思いました。

 CLの客観的な変化を変化させる「キュア(治療)」と呼びます。英語の辞書には治す、いやす、治療する、矯正する、直す、取り除く、みたいな感じですね。

 つまり客観的な変化をもたらさなければいけないという気持ちがどこかにはあるのでしょう。

 でも、そうすると、基本的に治らない、もしくは状態が落ちていくような病気の方に関しては、介入する余地はないということになってしまいますよね。

 私もあまりいい言葉が思い浮かばず、どうしたものかと思っていました。




 そうすると先ほどのオープンダイアローグの本の中に「ケアに限りなく近いキュア」と考えると良いのではないかというような言葉が書いてありなるほどと思いました。

 オープンダイアローグは、統合失調症にかかり危機的な状況を迎えている家に医療チームが訪問し、対象者、家族などの身内などと、開かれた対話を行っていきます。

 方法に関しては、詳しく書かれた論文がフリーアクセスできます。こちら

 基本的にはオープンダイアローグの中では、症状を軽減するといったことは、中心に置かれず、むしろ副産物どころか対話の中での廃棄物であるとまで言われることもあるようです。

 「言語化されにくい経験を言語化する」「語られてこなかったことを語らしめる」ということが重要であるようです。

 そして、何より「本人のいないところで本人のことを決めない」というしっかりとした透明性があることも記載されています。私は当たり前のことですが、病気にかかると本人のことを他人が決めることが多い現実があるので、とても感銘を受けました。


 ユマニチュードも、本当にあたり前のことを当たり前にというのが大前提な気がします。認知症の方に無言で接しない、目をみるとか。

 しかし、そのあたりが丁寧に言語化されているので、とてもためになりました。特に、言葉を発することができない方に関しては、実況中継をするように介助する、なんていうのはとても印象にのこりました。





 おっと、まとまらなくなってきましたね…。

 私が思うのは、キュアを念頭に置きすぎて当たり前のことを見逃していないかということ、そして、自分の中で治療するということに頭が行き過ぎて、当たり前のことが行えていなくなっていないかということに気負つけなければいけないなと感じました。

 クライエントが「患者の主観的な思い、願い、価値観が客観的な状況に沿うように変わる(ケア)」ば「キュア」はあとからついてくることも多々あると思います。

 本人のいないところで本人のことを決めないといった当たり前の部分や、接し方を見直したいなと思いました。



 ついつい、年度末、始の退職や人事異動などで、本人のいないところで本人のこと勝手に決めたり、セラピスト本位で進めようとすることが目立っていたので、そのあたりでも色々と考えさせられることがありました。







 だめだーさすがにかなり書いてないとなかなか文章も思いつかないうえに、子供も途中で泣くしで集中できないw

 少しずつ再開してきますので、温かい目で見守ってくださいw

 ではまた!
 ブログはずいぶんと時間があいてしまいました…。ばたばたとした日々を過ごしております。

 怒涛の年度末を終え、新年度になったため、少し気持ちを引き締めていきたいと思います。


 そういえば、全国学会、採択いただきました。学会発表は、今までしたことがないのですがしてみたいという思いはありました。

 最初は県学会や臨床OT学会にしたいと思っていたのですが、家庭の関係でちょっと難しそうでして…汗。

 でも、家のことを理由に、そんなことを言いグダグダしているのも嫌だったので、思い切ってちょうどタイミングが良く、また、関東開催なので、思い切って全国学会から、応募してしまいました。

 ちょっとビビっていますが頑張ります。



 さて、今日は見える化について少し思うところがあったので書こうかと思います。


 

 MTDLPにもあるように作業療法の「見える化」がかなり、重要視されているように思います。私も今年の目標に挙げています。

 ツイッターでも、視点は違うんだけれども、結局は見た目は理学療法と同じになってしまうなど、そういった話が多いように巻維持ています。

 だからこそ、視点を見える化しておく、ということが大切なのかなと考えています。

 私たちが直接かかわれる時間は40分とかですが、直接関わる時間以外にも、情報提供や、様々な調整、環境設定などいろいろな役割を担うことが多いと思います。直接かかわる時間は40分徒手的に行っていたとしても、作業療法の視点を活かす機会もあるのではないかと思います。




 でも、どのように示していけばいいのか、これは難しいなぁと思います。

 

 

 
 MTDLPはいわゆるクライエントの意味のある作業などに焦点を当てて、マネジメントしていくツールだと思います。評価は、聞き取りシートとBI、FIM等のADL・IADLの評価でしょうか。

 しかし、使っていると、これは私の技術不足かもしれませんが、まず意味のある作業が聞き取れないということがあります。そして、聞き取れても数値化できない。これも時折歩きがしまう。

 今何をすればいいのかわからないという状態や、現状で満足だから特に何もない、ということも結構あると思います。

 そうすると、MTDLPやCOPMといった評価は一気に使いにくくなると思います。
 





  最近思うのですが、これは仕方がないことだと思うときがあります。むしろ一緒に探していく、自然な流れの中で色んな経験をして、自分らしくなっていくということを重視する必要があるなぁと感じています。

 CL中心というとCLが述べた作業に焦点を当てて、そこからスタートしなければいけないという考えが自分の中にあったような気がします。




 最近ロジャーズの生い立ちを読んだりしていたのですが、彼の家は厳格なキリスト教徒で「抑圧的」な環境で育ったようです。自分らしくいられなかったのでしょう。このことが、「非指示的」であったり、「無条件の肯定感」や「共感」を大事にしていた理由にも繋がるようです。

 自然な流れのなかで、周囲の共感を得て自分らしく生きられるようになること、を考えたときに、COPMやMTDLPなども人によってはとても使いやすいのですが、もっと自然な流れを評価して形にのこせればいいなーとなんとなく感じました。



 

 今、考えているのは、もう少しMOHOSTやCAODなど包括的な評価を使って自然な流れを数値かできないか、FIMなどはどうしてもあがらないときもあるので、質的な部分で伝える方法を模索していければなーと思います。

 あとは、今はCL中心の実践は課題指向型のような形になってしまっているので、もう少しCL中心を深めてみて自然な流れで行うことができないか模索したいなーという感じです。

 



 なんか、まとまりないですが、久しぶりなのでお許しください笑。

 今日はカール・ロジャーズ入門 自分が自分になるということを参考にしました!

 ブログ書いてる間に、オムツ交換とミルクをあげたりしておりました…笑。

 ではまた!
 お久しぶりです。子供が産まれたり、嫁が退院して来たり、土日は嫁の母親が来たりと、なかなか自分の時間が取れませんでした。

 ちょうど嫁の両親も帰りひと段落しています。子供も案外優秀でそこまで夜泣きしないので、今はちょっとのんびりの見直しながらブログを打っております。
 
 久しぶりに、飲みながら書かせていただきます。



 さて、いきなりですが私の作業バランスは一気にかわりつつあります。認知作業療法の研修にも行きたかったですし、金曜日は記憶がなくなるまで飲むのが基本でしたが、娘を風呂に入れてみたり、オムツ交換をしてみたりパパとしての役割をまっとうして(笑)おり、趣味人としての役割は隠れつつあります。

 

 Wilcockは「行うこと(doing)存在すること(being)なること(becoming)」という講演を行いました。 これかな?

 今までは人は存在からすることが決まっていました、父親だったらこれをする、母親だったらこれをする。beingからのdoingだったんだと思います。

 しかし、作業療法では作業をすることによって、どんな存在であるか、つまり何をするか(どんな作業をするかに)によってどんな存在であるか、どんな存在になっていくのか、そして、後に加えられた、どういう所属(belonging)であるかということにつながっていくかということを大事にします。



 それは人権にも関わります。一時期出回っていた、人権の漫画で高齢者だからマラソンを止められるというものがありました。
今までだったら、高齢者はといういわゆる「being」から、マラソンはすべきではないのではないか、というところにつながっていたわけです。
 
 作業の視点からこの例からみるとマラソンをする「doing」から趣味人としての存在「being」に変わっていくことが重要だということになります。



 70、80代の人の話を聞くと、父親としてのすべきことは、「仕事がすべてで、家で何もしないということ」という作業のように思います。
 
 企業戦士というような言葉からわかるように、仕事がメインでありました。

 今、私からわかるように家はみんなで守るものになってきています。共働きも増え、妻に任せきりというわけにもいきません。
文化や時代色んな物に左右されるなぁと感じています。周りの環境に影響されるのは、社会的にどんな存在あるか、といったところでしょうか。



 作業のレンズを通してみれば、それは作業的不公正ということかなーと思います。
先ほどの「行うこと(doing)存在すること(being)なること(becoming)」には作業的公正と、生態維持可能地域の開発(生態系を保つことのできる環境)が大事です。

 ちょっと今の日本には難しいかなぁなんてことはちょっと思います。

 しかし、私は娘のオムツ交換やお風呂を行うことで父親でもありますし、こうやって作業のことをブログで書いたり、仕事をすることによって作業療法士でありつづけます。そして、音楽を流したり、ギターを暇な時間に弾いたりすることによって、趣味人でもあり続けることができます。

 作業療法士の向き不向きを書いた際にもなんかもやもやしたことを文にした感じでした。

 今感じるのは、そんな考えすぎることはなくて、自分の「doing」がどんな存在「being」につながっているか、しっかり考えていれば、不安に思うこともないのかなとも思います。



 私が作業について、作業療法について考え、行動し続ければ私は作業療法士として存在できます。

 音楽を流して、娘にも聴かせてみたり、自分も聞いたり、演奏したりすることは、趣味人としての私を支えます。


 家庭を持つ、ということは不安ですが、娘を風呂に入れる、オムツを変える、という作業は私を家族に所属させ、親という役割を与えてくれます。「being」「becoming」そして、家庭に所属する「belonging」をささえてくれます。



 さて、私はどんな作業を通してどんな存在になっていくのでしょうか。

 こんなことを考えたのは、私たち夫婦も子守りがわからず必死になっていたときに、嫁の母親には家事ばかりで、あまり子供に触れる時間があまりありませんでした。

 しかし、先ほど、私が嫁に行って「お母さんにも孫の世話を積極的にしてもらおう」という提案をして、導入したところとても良い表情をされていました。きっとその作業を通して「母方の祖母」という存在が肯定されたのかもしれません。

 はて、どんな「作業をすること」が各々の存在を肯定をしてくれるのでしょうか。



 今日は作業って何だろうからでした。



うーん、パイナップルのストロングゼロがおいしい。明日はゆっくりします。

子育てのアドバイス、お願いします笑。

ではまた!
 ちょっと間が空いてしまいました。いつ子供が生まれてくるのか気になってなかなかいろんなことが手につきません。

 ブログを書くときにはは基本的には、何かしら本や何か資料を見ながら書いた方が勉強になると思っているのですが…今はそんな感じでもないので(笑)、思ったことをただただなんか吐き出そうかなと考えています。

 

 ついこの間ツイッターで作業療法士に向いていない気がするという学生さんのつぶやきを見てついつい反応してしまいました。

 最近は、向き不向きを考えることもあんまりなかったなぁと…。まあ、そろそろ子どもも生まれたら向き不向きなんて考えている場合じゃなく、しっかり働かなきゃいけないので何とも言えないですね…汗。





 私はダメ学生でしたし、実習は、正直実習どころでなく、一人暮らしが初めてで生活すらままならずメンタルだけぼろぼろになって帰ってくるような感じでした。
 
 思えば本当にとんでもない学生でした。

 実習が終わって学校に帰ると、教員からは「そんなんじゃ患者に嫌われる」「自信を持ってない作業療法士に見てもらう気持ちを考えろ」など、まあ、自分なりにメンタルがぼろぼろになってきたところに追い打ちがかけられました。

 今考えると結構気の強い女性の先生が多かったので、なよなよしてる男性が許せなかったのでしょう笑。




 私はもともと自分を下げてしまうタイプ(自分はできない等…まあ兄弟が優秀だったので小さいときからもともと劣等感の塊のような感じだったのもありますが…。)でかなりの劣等感を抱えていたので、自信を持ってバリバリ働いている自分なんていうのは全然想像できませんでした。

 そのころから、作業療法士は向いていないのでは?と思うことは多々ありました。

 しかし、その時は大学4年生でしたので、ひとまず資格だけはと思い、国家試験は何とか突破しました。




 就職先は、実習に行った際に病院は無理だと感じていましたので、老健とかがいいなーと考えて探していました。

 しかし、大学の先生の紹介で見学に行った回復期のリハ病院がとてもきれいで雰囲気が明るかったこともあり就職しました。

 見学の印象とは裏腹に、中で働いてみると、OT不足で免許が届くなり、いきなり20単位、多いときはモーニングケア、ナイトケアと称して、22単位をとるなんていうときもありました。

 もともと体力がないこともあり、ミスがあったのも私が悪かったのですが、上司、先輩も患者さん、実習生の前でも結構怒鳴ってくるような人ばかりで、精神的に疲弊してしまいました。

 酒におぼれるようになったのはこのころです笑。

 まわりの同僚や先輩はこなせているのに、自分だけ上手くこなせていない。劣等感はますます増していくばかりでした。

 このころは、もうとにかく、作業療法士に不向きなんじゃないかという思いよりも、職場から逃げないといけないという気持ちがかなり強くなっていました。


 

 そして、何とか今の訪問にたどり着きました。今は、不満もないわけではないですが、何とかやっていけています。

 もはや、訪問に入って一年目は、たまった心の闇を回復するような期間だったような気がします。

 訪問は土日が休みですので、それまで全く行けていなかった研修とかにもいけるようになりました。






 私は作業療法士はやっぱり堂々としてて、自信があるというのが大事なんじゃないかという思いと、自分はそうはなれないんじゃないかという思いがありました。

 しかし、クライエント中心の作業療法を勉強しているときに「案外頼りなさげな学生や、OTが活躍している」といったような話を聞いたときに、自分の中で勝手にできていた(いや、環境もあるなぁ)OTの理想像でなくても、いいんじゃないかなと思いました。

 環境や、自分の中の歪んだ認知によって、勝手な自分のOTの理想像を作ってみたり、こうあるべきというものを作ってしまっていただけなんじゃないかなと、いま以前を振り返ると思います。





 OTはPT・STにくらべて本当にいろんな領域があると思います。

 身体機能の回復を突き詰めたい、心身機能にとらわれない関わりをしたい。

 精神を中心にみたい、身体を中心にみたい。

 お年を召した方との関わりがしたい、子供と関わりたい。

 

 



 OTの向き不向きというよりは、自分がどんなところで働いたら、自分らしく働けるかなのかなぁとなんとなく感じています。

 誰でも向いている職場・領域があるんじゃないかなぁと…見つけるのは大変かもしれませんが…汗。

 みなさんはどんなところだったら自分が輝けそうでしょうか?




 
 私は自分が向いていると思えることはまだまだないですが、ひとまずOTとしての人生は続きそうです。でも、仕事として続けられているということは振り返ってみるとありがたいことだなぁと思います。




 なんか、ばーっと書いてたらこころが落ち着いてきました。

 ではまた!